とっきーな人生

初めましてとっきーです。それなりに変わった人生送っています。そんな人生書いてます。

本を出す予定

本を書いてみました。
これをネット載せたり、自分史センターへ出す予定です。
自分の家庭に関することですね。
世に知れ渡ることで、お役に立てたらとおもいます。

電子書籍みたいにご一読していただけたら幸いです。
もちろん拡散もです。

母子家庭できょうだい児の暮らし方
                           時津 泰

まえがき

この本をご覧になってくださりましてありがとうございます。
書くのもおろか、本を読むことも少ない僕がこの本を書いたのには、
世間に母子家庭やきょうだい児のそれぞれの立場、僕である母子家庭ときょうだい児である立場での日常を世間に認知していただきたい、同じような当事者の人たちに知っていただき何かお役に立てたらと思ったからです。
実行まで年月がかかりましたが、もし認知につながるとしたら書こうと思い、
書きました。
 この母子家庭ときょうだい児という言葉は、世間からは「大変だ」と言われますが、大変です。
結局その大変さが限界を超えると、事件になりかねかせん。
限界に近づいたときは何度かありました。
いいこともありました。
そういったことをできるだけリアルに書きました。



















































母子家庭とは何か

母子家庭って言葉だけは聞いたことがあり、内情ももしかしたら私以上に詳しい方も多いと思います。
ですが、私の暮らしのことをふまえましてご説明したいと思います。
母子家庭って当たり前ですが、母親だけなんですね。
では、母親だけだとどうなるかといいますと、人や家庭の状況によるとは思いますが、時間・経済的に負担が増します。
それは子どもが小さければ小さいほど大きく、子どもが大きければ大きいほど小さくなるのかと思います。
両親いればどちらかが面倒みてくれるケースですが、片親だけだと難しいのと一緒です。
なので、僕からしても小さい子どもがいて、( 数が多ければ多いほど)母子家庭の人はどうやって生活をしているのか、よくやっていると関心と尊敬の気持ちを抱いています。
本来色々と気持ちがある中で、働かないと行けないという気持ちが大きいとは思いますが、子どもの面倒でできない。
となれば働けないからお金が稼げない。
それで、時間・経済的に負担が増すのですね。
そこで子どもが大きければ大きいほど、自立できるので、面倒を代わりに見てもらったり、はたらける年齢なら働けるということができるので、その分時間・経済的負担が軽減されますね。
身内が時間・経済的負担を軽減してくれている場合もあります。
僕はこのような家庭状況になってから、人の存在がいかに大切かがわかりました。
僕の家は身内は少ない方でしたので、基本家族だけで動いていました。
誰かに話をしても聞いてくれるということは大きかったですが、それ以上は持ちロありませんでした。
そのため、母子家庭になったことにより、ときには疎外感を感じるときもあります。
母子家庭って周りには少数なんですね。
なので、友だちといても疎外感や嫉妬を感じることがありました。
家庭のことってなってみないとなかなかわからないんですね。
友だちからどこどこいったとか聞くと、辛いんですね。
僕の家はいく余裕なくてお金もないですし。

そのため、友達と衝突したことも何度かありました。
家庭の格差って簡単に人と人を衝突させる効果があるかもしれませんね。
嫉妬や怒りは人を遠ざけるのはわかりますが、できなくなったことを平然と言われるとこういった負の感情が多かれ少なかれ湧いてくるのではないのかと思います。
まだ僕の家はまだ高校を入学していたので、大学は考えていなく、学費の面は何とか父の財産や学資保険で済みました。
この点は本当に良かったです。
借金も幸いなく、高校を出れば働いてお金を稼げるので家に入れることや貯蓄を増やせれますので。
なので、母子家庭になってしまったときの状態って結構大きいです。
一般的には80代ぐらいまでは両親揃ってませんか。
となればあと25年早かったことですね、僕に家の場合は。
25年は結構変わりますね。
生きていたら父はまだ数年は働いていたと思います。
 聞いた話では、なめられることもあるみたいです。
例えばセールスの売り込みとかですね。
現実、男の人からしたら、女性は弱りとか言うイメージがあるかもしれません。
 母が弱ってくることもあります。
今は回復してはいますが、僕の家がそうでした。
母曰く、今まで父がなんでもしてきたので、守られてきた。
その人がいなくなって、自分の無力さを感じて自信がなくなって弱った。
とのことでした。
ということは、もしかしたら旦那に結構やってもらった人はいざ旦那を失ったときは危ないかもしれません。
子どもが小さければ生活のために働きに出ます。
働き方はぴんきりですが、子どもが小さければ幼少期であれば、保育所に預けて祖の間に働きだしたり、小学生になると学童に預け入れたりしますね。
その間にパートで働きますね。
中学生になったら子どもだけで留守番は大丈夫なことが多く、フルタイムのパート、すごい方は正社員で働いたりもしていますね。
高校生になれば子どもは高確率でアルバイトをして家にお金を入れている場合があります。
僕も稼ぎはどうあれ、高校になったとたんにアルバイトは半強制でした。
子どもが収入を得ているぐらい成人していれば、お金を入れてくれるので働かない人もいるかもしれません。
余談ですが、高校生でも15万近くは普通に稼げますし、休みとかないんだったら、友だちは某スーパーで24万稼いでいました。
ホントかはわかりませんが、そこのスーパー確実に労働基準法は破っていました。
その友達は両親いましたが、親から授業料は自分で払えと言われていたからです。
もし借家ならそこまで働かなくても生活保護で生活もできます。
ただし子どもが働けば生活保護からは抜けます。
生活保護は働いていないは必須条件なので。
僕は高校の2年の途中から母子家庭になったので、それまでの母子家庭生活はわかりませんが、仮に家がもっと早い段階で母子家庭になっていたとしたら、母が再婚でもしない限りは想像もつかないぐらい貧しかったと思います。
そう考えると、母子家庭になるタイミングによっては、何とか生活はできます。
私の母は生活費+ぼけたくないという理由で働いています。
僕の家は借家ではないので生活保護は対象になりません。
親戚や親族にお金があって援助してもらっている人もいます。
僕の家は最近まで母方の祖母からお金を頂いていました。
母子家庭になったことによる手当がいただけます。
遺族年金ですね。
これ父子家庭だとないだとか。
私の家庭は母子家庭なので、遺族年金がいただけます。
収入面は母のパートの収入+遺族年金+私が入れる1万円です。
なので、家族の総収入月約30万ぐらいです。
私がもう少し入れれば上がりますが、申し訳ないと思っていますが、私の収入が少ないため1万でいいだとか。
それと、自分のお金は自分のために貯金してほしいというのも理由です。
もちろん母がパートをやめたら、稼いでいた分をまるまるぼくが稼がないといけません。
現在は8万なので、8万まるまるですね。
それにいままで入れていた1万を足して9万ですね。
兄の障がい年金も入ってきますが、それは全額兄の将来のために貯金をしています。
使おうとしたら、正確に兄のお金を使ったという理由を記入しないといけないんです。
もし適当に記入なんかしてしまうと家庭裁判所行きになってしまいます。
ただし、兄のために使うなら記入はしなくていいです。
なので、兄のお金を使おうとしますと、厄介なことが起こるのでまず使いません。
おかげで母曰くすごい貯蓄だとか・・・。
しかしその貯蓄は将来的には兄はどこかの施設に入所する予定なので、そのためのお金なんです。
出来る限り家にいるようにはします。
施設は家ほど自由ではありませんから。
今現在の私の家庭の収入面はこのような感じです。
仮にもし兄がいなかったら、時間の自由度があって、もっと稼げたと思います。
のちにご説明しますが、障がい者の兄がいるということは結構自由度がなくなり、生活に支障をきたします。
母子家庭になったタイミングが障がい者の長兄以外の私たち兄弟が高校生でアルバイトで自分で収入を得れるようになっていたのが救いでした。
学費も私は私立でしたが、奨学金制度で何とかなりました。
次兄は公立だったため学費は安かったため何とかなりました。
その兄は現在家庭を持っていて、収入面が大変なので、お金は一切入れていません。
奥さん専業主婦ですし。
 借家でしたらわかりませんが、医療的依存度が高い重度の家族がいなくて3人暮らしで一戸建てで母子家庭でも総収入29万あれば何とか最低限生活できます。
僕はネットやったり、たまに外食したりできてますし。
実際母がパートやめて9万を入れなければいけなくなっても18万僕が稼せげば今の状態は維持ができるのです。
18万ならアルバイトでも稼げます。
 では、現在の29万円はどのようにして作っているのかを詳しく書いていきます。
まず、遺族年金は2カ月で15万貰えていました。
それに僕の現在の収入手取り14万に母の手取り8万ですね。
働いている時間帯は、僕は1つが週4日で5時半から9時、もう1つが10時15分から17時または18時までのWワークで、母が土日9時から13時、週5日で23時~0時半までのWワークで稼いでいます。
僕は介護のアルバイトのWワークで、母は老人ホームとパチンコ店の掃除のパートのWワークです。
それぞれこれらの仕事を選んだ理由は僕も母も、1番融通が利いたからです。
時間的拘束がある中での仕事探しはいくらパートアルバイトでも結構苦労しました。
普通の選択が取れなかったためです。
この仕事の合間で兄と一緒に母か僕のどちらかが家にいます。
 税金や保険料等の公共料金は稼ぎの多い僕以外は大抵免除を受けれました。
兄は知的障がいで知的障がいには区分があり、区分は1~6まであり、数字が高ければ高いほど重度であり、兄は最重度の6で、障がい者手帳は最重度の1級です。
これで兄は税金や保険料、医療費がすべて無料です。
母は収入が少ないため、保険料は免除され数千円程度で、家が非課税なため市民税は無料です。
国民年金は全額免除を受けています。
医療費は3割負担です。
後の携帯料金などの公共料金は普通には払っています。
僕は、稼ぎが多いため、市民税は免除なし、国民年金は半額免除、保険料は社会保険で9千円ほど払っています。
公共料金は全額免除なしで払っています。
 母は父がいた時は父に頼り切っていたため、いざ自分が動かないといけなくなったときは、どうにもできないんじゃないかと思いましたが、できていました。
特に僕たち子どもは何もしませんでした。
私たちも成長したのもあってか結構早い段階で立ち直りました。
ただ弱くなったとは言っていました。
信頼しきっていた旦那がいなくなったからだと思います。
それでも精神科に7年も通うようにもなってしまいまして、家でも寝てばっかりいますが、パートは掛け持ちしていて10年と4年と続いているので元気だと思います。
 しかし、危なくなったらまた探して働けるところで働けるだけ働くそうです。
私の家庭でいう母子家庭だけでいうと以上の形です。

















母子家庭になって変わったこと
  劣等感を感じたり、悔しい思いをするようになりました。

これは最初はそこまで感じなくただ「生活が苦しくなった」とだけでした。
しかし、いろんな人と関わってくるうちに、「自分は母子家庭だからそれはできない」と後ろ向きな思いをすることが増えてきました。
人って自分の中で良かったことを話したいという気持ちはないでしょうか。
本来であればそれを受け入れるのが筋なのですが、それがなかなか僕にはできなかったです。
悔しかったんですね、自分がその平然と話していることをするのにどれだけ悩んだのかも知らずにという思いになるんです。
これって、例えば何らかの事情で普通にできていたことができなくなった人に対して、その普通にできたいたことを楽しそうに話しているようなものだと。
人によるとは思いますが、数年前までの僕はそういった気持ちがありました。
 
食卓が寂しくなりました。

父がいたころは、焼き肉とか家族で外食や夜食とかをときどきしていましたが、全くなくなりました。
少ない時はほうれん草のお浸しにもやし炒めとご飯でした。
 
病気に敏感になりました。

父はポリープを何年か放ておいて気づいたときにがんになっていました。
なので何か不調を感じたら、すぐに病院へ行くようになりました。
おかげでたまには「自分で病気をつくっているのではないか。」と思うときもあります。
 
がんや母子家庭というワードに敏感になり、関係するニュースや記事に関心を持つようになりました。

新聞とか読んでいても「がん」「母子家庭」というようなことはすぐに見つけられるようになりました。

 人に無関心な自分が人に関心を持つようになれた。
今までは、学校とかで傍観者みたいな感じで、1人でぼーと教室を眺めていました。
しかし、こういった家庭になってからは何か困っているような人に対して声をかけて愛想よくできたり、一緒に関わろうとしたりしました。
































家族に障がいを持った兄がいることとは

続きましては障がい者が家族にいることについてです。
これは家庭の状況に加え、障がい者方ご本人の特性に置きましても変わってきます。
これ以降の文章他の私の書き込みから抜粋です。

私の兄の場合は、私が物心ついた時からその兄が障がいとまではいかなくても、何となく何かが違うとはわかりました。
親からもお兄ちゃんは障がい者なんだよと教えてもらったこともありません。
自分で一緒に暮らしていて分かりました。
なぜなら兄は全く喋ることができなかったからです。
 私が物心ついたときは、兄は小学校低学年の年齢でした。
小学校低学年と言えば、ランドセルをしょって、まず1人で家を出て、分団に入ってその人達と登校するのが一般的ですが、兄はそういったこともできません。
兄は養護学校というし兄のような障がいを持った人達が通学するところに通っていました。
そこは、保育園児のようなところから、小学部、中学部、高等部までありました。
兄の障がいに合った授業が受けれるそうです。
一般の学校に比べて内容は軽いです。
小6でひながなの勉強など。
その時は私は物心がついていなかったので分かりませんが、小学部に行く前は、一般の保育園児と同じようなことをしてきたみたいです。
毎朝母と一緒にバス停まで行き、送迎バスに乗って行きました。
そして、一般の学生の下校の時間ごろになると、母がバス停まで行き、兄を迎えに行きます。
1日の授業時間は一般の学校とさほど変わりませんが、当然テスト週間はなく、部活もありませんでした。
入学式や卒業式はもちろん、運動会や学芸会や作品展はありました。
作品展にはよく休日に開ていたため、見に行ったのを覚えています。
粘土細工や絵が飾ってありました。
運動が得意で、かけっこや玉入れを上手にしていたのを覚えています。
兄が帰ってきたら、兄は2階の部屋にじっとしていました。
輪ゴムを触りながらじっとしていました。
カセットを大きな音で聴いていました。
母と出かけ、バスが好きなのかバスに乗りに行ったり、近くの公園に行き夕方ごろまでブランコで遊んでいる日もありました。
何回ついていきましたが兄はずっとブランコで遊んでいました。
1つの遊びをずっと続けていました。
しかし、時には原因は分かりませんが、急に怒りだして家を飛び出し、近くの公園まで行き、大人子ども問わずかみついたりしていました。
その度に母が謝りに行っているのを何回か見ました。

遠くまで行き、警察に捜索願を出したこともありました。
1人で家に帰ってきたこともありました。
家族全員で探していたときもありました。
よく事故にならなかったねと話したら、兄のような人は神様がついているんじゃないかなと言っていました。
学校でも学校の外を飛び出したりはしませんでしたが、他の生徒や先生を噛みついたということはよく聞きました。
そんな感じで、日によって兄は別人のように変わります。
家でも突然怒り出し、家族が誰だろうが噛みついたりしてきました。
学校から帰ってきても誰かと遊んだりはしません。
一緒に遊ぶということができないのです。
一緒に食事をしますが、兄は食べ物で遊びます。
口から食べたものを出したり入れたりを繰り返しながら食べています。
はたしておいしいのかは分かりませんが、食べていました。
あまりいい気分ではありませんでしたがそのことには口に出さず普通に食べていました。
お風呂は父と一緒に入っており、たまに母とも入っていました。
何もかも洗ってもらっていました。
着替えはできていました。
着替え終わったら2階へ行き、輪ゴムを持ってじっとしていました。
時には、またカセットを大きな音で聞いていました。
夜中まで聴いていた日もありました。
どうやら兄は知的障がいというもので、頭に影響しており、体は特に問題はありませんでした。
そのため、一通りの身の周りのことは手を加える部分もありましたが、自分できました。
ですが、排泄はよく汚したりしており、上手くトイレの中にできなかったりはみ出たりして、壁にかかったりしていて、家の壁がコンクリートではなく石膏ボードのようなもののため、腐って穴が開きました。
 兄はこのように家や学校、その他の場所で生活していました。
兄は、力がありました。                                    
私が覚えている限りでは、兄が小学部のときから暴れだしたときは、大人が複数で止めに入っていました。
家でもまず1人で兄を止めるのは無理でした。ここまで兄が力があるのは、おそらく健常の人であれば自制心というものがはたらいて、どんなに感情的になってもコントロールでき力を抑えられると思いますが、兄はそのコントロールができずに、100%の力が出るからだと思いました。
鎮めるための薬があったため、その薬を飲んでもらい落ち着いたということが多かったです。
幸い薬は飲んでくれました。
その薬は、月に1度通院している病院で処方されたものです。
薬を飲んだ後は、眠りました。
眠気で、衝動性を抑える薬かもしれません。
その薬は兄の状態によってあまり効いていないときもありました。
そういう時は薬の量を増やして対処したり、変えたりしていました。
しかし、そうすると中々起きず、学校に遅刻することがありました。
そういう場合は、母が兄を車に乗せて送迎していました。
頭の問題なので、頭の働きが関係しています。
生まれつき脳の機能の部分が至らなかったり、回転が人と違っているのかもしれません。
家族や兄と関わる方全員が兄が暴れだすきっかけを把握して、兄が暴れないように接していました。
 そんな中で兄は喋れないのもあって、暴れだしても原因がわからないこともありました。
所かまわず暴れだしました。
たまには言葉で何回も何回も言い聞かせれば聞いてくれるときもありましたが、大抵は抑えつけました。
人混みの中であろうとトイレだろうと車のなかだろうととにかく暴れだしました。
車の中なんかでは、運転している父を後ろから引っ張ったりして、車が揺らいだりしていました。
対策としまして、後ろにネットをして兄が前の人を引っ張ったりしないようにしました。
しかし、ネットによっては簡単に破れたりしたので、金網のネットにして落ち着きました。
どうしても兄が治まらないときは、途中で車を止めたりして兄が静まるまで待っていたこともありましたし、兄は自閉症とも言われており、自閉症特有のこだわりというものあり、家に帰りたいと訴えたときは、とにかく兄を家に帰らせないと静まらないので、運転手である父と兄が車で帰って、残された母ともう一人の真ん中の兄と私とで交通機関で帰りました。
道のこだわりもあり、自分が思った道でないと納得いかず、道を変えたるすると、暴れだし、後ろから引っ張ろうとしてきました。
自分の思い通りに行くためのことは不思議と兄の解釈でしっかりと覚えています。
好きなものははっきりと覚えるのでそれと同じでしょうか。
どこへ行くにも兄に主導権を握られている感じでした。
それだけ力というものが凄まじいのです。
 なので力のある分、男性の方が育てるの大変だと聞いたことがあります。
性別ごとの脳や性ホルモン構造の関係ですが、男性の方が衝動性が強く、筋力もつきやすく、体格も大きくなるのでそのことも関係しています。
また、兄のような障がいは男性の方が染色体の関係でなりやすいのです。
生物の話になりますが、染色体は女性を示すxx染色体から始まり、その中の1つのⅩ染色体が傷ついてY染色体になり、男性を示すXY染色体になり、そのⅹ染色体から傷ついてできたY染色体が障がいとなりやすいからです。
暴れだす度に何故暴れだしたか、次はどうしたら暴れないかと、原因をつき止めて、環境を変えたりしました。
おかげで、同年代で比べて我慢という忍耐力はつき、兄のような人を見ても子どもの時から差別や偏見を持つようなことは言わなかったです。
 兄のような障がいでも人によって他の障がい同様、様々なものがありますが、兄は衝動性があると思います。
何かストレスがあると身体に出で攻撃してきます。
兄の関係で、兄が通っている養護学校に行ったことがありますが、体格のいい男の先生はいましたが、いざ暴れだしたときに力で対処出来る態勢を取る必要があるからだと思いました。
そういった点では、兄に続くきょうだいが男で良かったかもしれません。
まだ敵わなくても、ある程度は抑える力があるからです。
傷は結構つけられ、家族ともども兄につけられた傷跡がどこかしらにあります。
私はこの傷を見て、今までの兄との出来事を走馬灯のように思い出し、よく家族で思い出話のように話しています。

こまで書いたように、兄は自身の障がいによって突然暴れだし、家からとび出して、周囲の人に危害を加えたり、こだわりのため、1つのことに気が済むまで取り組んだり、自分の身の回りのことはやりますが、きれいにできないなどと、人の手が必要な状態でした。
そこで親、特に母が動いてくれまして、兄が何か人様にご迷惑をかけることをしたら、謝りに行きました。
 私の記憶の中には、兄が人様に危害を加え、その度に母が謝りに行きましたが、当時私は子どもだったため、あまりその出来事に対して深くが考えてはいませんでしたが、今となって思う事は、

今となって母曰く、頭の中が真っ白になってとにかく謝りに行かないといけないと思い、謝りに行っていたとのことでした。
幸い、危害を加えた方々から何か因縁つけられることはありませんでした。
そのため、兄がどこかに逃げ出さないように見張っといてとは小さいときからよく言われてきました。
本当に大変なときは、母や私たちではどうしようもできなく、仕事中の父に電話して父に来てもらったこともありました。
そういうときときどきは父から「そんなことで呼び出すな!」と、母が怒られていました。
ですが、兄は申し上げましたが、力があります。
力さえあれば、兄を抑えることが何とかできたのです。
となれば、その当時では頼りになるのがます父だったのです。
大人になって仕事を経験している今となっては、父の言い分もわかりますが。
そんなやり取りが続きました。
 1つのことにこだわった時は、主に兄と一緒にいるのは母であり、母が付き添ってくれ、公園でのブランコに日が暮れるまでひたすら押し続け、ときどき僕も手伝いに行きました。
バスで出かけるのにもこだわりだあったため、兄が学校から帰ってきて、でかけたいと訴えたら、母が付き添っていて、大体2時間ほどで帰ってきていました。
 食事の時は、兄は自分で食べることはでいますが、遊んでいます。
なので、ある程度食べ終えるまで見守りが必要で、時には時間がかかることもあったため、声かけも必要でした。
食事のことは母がしていました。
どういう風に遊ぶのかと言いますと、いれたものを出してまたそれを食べるということをします。
1回では済まなく、出したり入れたりもします。
手で食べ物をさわって、手で払いうように飛ばしたりもします。
なので、兄の周りは大抵食べ物で散らばっていたり、あまり見れない状態になっています。
家族は慣れています。
 慣れていることと言えば、排泄も自分できますが、排泄物を自分でしっかりと処理できないため、床に落ちていることが時々あったため、兄がした後臭いがしたら、確認し、落ちていたら処理していました。
これは気づいて人がしていました。
尿に関しましては、冒頭でも書きましたが、壁にかけるので、毎回母が掃除していました。
 入浴は父としていまして、兄は浴槽に入ることはできますが、体を自分で洗おうとはしません。
そこで、浴槽に入っている兄に父が声かけして、父が兄の頭・体を洗っていました。
髭剃りも兄は自分ではできないため、父が剃っていました。
父がそうやって兄との入浴では、兄の身の周りを洗っていました。
入浴から出だあとは、自分で体を拭こうとはしますが、ほとんど拭けていない状態であったため、父がほとんど拭いていました。
そうやって入浴の際は、父がまず兄の方を洗って、合間合間に自分の体を洗うという流れでした。
 着替えは、着る服さえ一式部屋に置いておけば、兄が自分で着ていたため、特に着替えに関しましては見守りや手を加えるということは必要ありませんでした。
しかし、着替え終わった後ふと見てみると、後ろ前反対や、裏表反対ということがあり、時々は気づいた人が声をかけて、着直すように促しました。
すると、兄は問題なく着替えることができました。
 床屋では嫌がってじっとしていられないため、何とかできていましたが、暴れだし危険性を考えて、休日に父が付き添っていました。
その床屋も色々と行き、しっくりするところを見つけ、見つかったら、ずっとそこにしていました。
 病院関係は母が付き添い、そこでも落ち着きがないため、常に母が側にいました。
検査や手術等は嫌がって、落ち着きはありませんでしたが、何人かで抑え、何とかできました。
窓ガラスに突っこんで、手足ををガラスで切り、救急騒動になった時も母や父が動いてくれ、無事に手術もでき、1泊2日で退院できました。
歯医者でも麻酔ができ、抜歯もできました。
 兄の行政的な手続き等に関しましては、当時から後に詳しく記載してあります、兄のような知的障がい者を支援する機関があり、そこに母が問い合わせ、いろいろと相談しながら動いていたため、問題なく済んでいました。




いろいろと言われ、気を遣う

いろいろと特性のある兄で明らかに人とは違ったことをして、周り特に子どもにはよく兄のことを何か言ったりしていました。
学校では、家から演歌が聞こえてきた、公園で暴れていたとか。
あまりいい気分ではありませんでした。
友達を家に連れてきて、友達が兄の姿を見ると、中には喋れないからかからかってもいました。
兄はそういったことも理解はできないため、何にもでしたが。
なので、親は家にあまり人を連れてきたくなはないと言っていました。
それは僕ら兄弟も思っていました。
でも、家がなぜかたまり場となり、よく友達を連れてきました。
大人は、子どもみたいに何か言ってきたりましませんが、兄のことを見てきたりしてきた程度でした。
そこまで差別的なことは言われませんでした。
 ただ、大勢の集まりや遊園地や店など大勢でにぎわっている所には行くのにあまり気が進みませんでした。
前述した通り、いつ暴れだすかわからないのと、食事がちゃんとできないから、周りに迷惑がかかるのを考えていたためです。
なので、どこか行くにしても、あまり大勢の人がいないところを選びました。
外で食事するときも同様でした。
席も人目にできるだけつきにくいところを選んでいました。
そうやって兄が外出するときは、何にしても、人目につかないようにして親中心に、家族の誰かが兄について行動していました。
今思いますと、どこに行ったとしても、滞在時間は短く、車に乗っていた時間の方が長かった時もありました。
子どもながら、どこか兄によっていろいろと気を遣っている親の姿を見て育ったためか、子どもにしてはそこまでわがままではなかったと、親に言われました。  
 

そうやっていろいろと苦労がありましたが、兄も成長をしてくれました。
何が成長したかと言いますと、

◦暴れだして家を飛び出して他害することがなくなった。

これは一番良かったです。
人間自身歳を重ねると落ち着きが出てくるといいますし。
きっかけはわかりませんが、高等部に入学してからはありませんでした。
先生方や母のママ友や支援機関の方々や家族の頑張りのおかげかもしれません。
兄自身も、何かする度に、「これはいけなんだなと」と思ったかもしれません。
兄のような特性に人は、何回か繰り返せば、理解はできます。
たまには自分の中で思っていたことと違うと、暴れだしたりして先生を噛みついたと聞くことがありましたが、前ほどひどくはなく、すぐに治まりました。
薬の関係もあるかもしれませんね。
兄にはかかりつけの病院があり、そこに担当医がいまして、母がその担当医とお話しまして、兄の状態によって薬を変え続けていたため、それがあったものもあったかもしれません。
そういった衝動性は兄のように年月経てば治まっていくこともあります。

◦カセットテープをつけて大音量で流すことがなくなった。

これは環境の変化に自然と兄が対応できたおかげかもしれません。
それとカセットテープとラジカセが酷使したことによって故障してきて、それによって兄が仕方なく諦めたからかもしれません。
(家にいたら、寝る時以外ほとんどずっとつけていたぐらいでした)

◦前もって声をかければ臨機応変に対応をしてくれるときが増えてきた。

兄自身落ち着いてきたのか、何日か前から声をかけたら、当日になって動いてくれることが増えました。
しかし、当日に急に声をかけると興奮することがありました。(他害はありませんでした。)

◦車に乗っているときに、興奮して他害することがなくなった。

家族で出かけるときや何時でもじっとしてくれました。

◦道のこだわりがなくなった。

道を変えたりしても興奮せず、じっとしてくれていました。

◦家でじっとしていて動かなくなった。

バスに乗って出かけたいということがなくなって、学校から帰ってきたら家でじっとしていました。

そのような感じで、まとめますと、衝動性が抑えられ、じっとするようになったという変化が兄の中で起きました。

兄が高等部を途中退学して、日中に兄のような障がいを持った人が通所する作業所に行き始めました。
僕の家のすぐ近くに作業所があり、その作業所の倍率がものすごく高いため、入れるタイミングで入れさせたいという目的のためでした。
中にはその倍率の高さのため、学校を卒業しても入れるところがなくて、仕方なく在宅という家庭もあります。
そんな中ですぐ近くの作業所に入ることができたのは相当運が良かったと思います。
そこは平日のみで、GW・盆・年末年始は休みで、9~16時(内休憩1時間ある)で作業しています。
作業内容は、部品のねじを締めたり、陶芸をしたりしています。
兄はやりませんが、他にもクッキーやパンをつくったりもしています。
そのクッキーやパン、陶芸品は隣の店で売られています。
週末の金曜日の午後はお出かけの日で、様々な施設や公園などに連れていってもらっています。
たまに1日お出かけという日もあります。
工賃として3000円いただいてきます。
作業所はどこもそのくらいの額です。
送り迎えは引きつづき母がしていました。
それ以外にも火曜木曜の作業所が終わってからの16時半ごろ~19時でで、デイサービスを利用し、
土曜日はまた違ったデイサービス、日曜日は火曜木曜に行っているデイサービスとはまた違ったデイサービスを利用して14~15時半まで利用し始めました。
月に1から2回1泊2日でお泊りの練習で施設でお泊りしていました。
学校を卒業して働き出してからはこのような生活でほとんど変わらず今でも続いています。






















母子家庭で障がい者がいる家庭とは

ここからは母子家庭と障害者がいる家庭の2つが合わさった僕の家庭のことを詳しくご説明します。
結構今までのことが重複しています。
兄が作業所に入り始めた時に父が亡くなりました。
それから兄の関係で色々厄介なことが発生し、どういったものかまたその対処法を書きました。

◦何か行動するにも兄の関係で時間的縛りが発生し、行動の幅が狭まった。

母が専業主婦で生活をしていましたが、働父が大黒柱だったため、生活が苦しくなりきに出る必要ができました。
そのときいい仕事があっても、兄の関係で時間が合わなく断念しないといけないことがありました。
もちろん仕事探し以外でもこれは発生します。
ずっと目の離せない人がいる人は多分似たような境遇ではないでしょうか。
母だけでなく、家族全員に影響しました。
しかしこの当時はそこまで支障はありませんでしたが、もう1人の次男の兄が出てってから、僕に対する影響が強くなりました。
母がパートに行っているときは必然的に僕が家にいて兄のことをしないといけなくなりました。
幸い兄は身体は問題なく動くので、介助はほぼいりませんが、食事や身支度、デイサービスの送り迎えでは必ず誰かがついていないといけないのです。
僕は、母がパートにいない時間帯週5~6日の午後10時から午前0時半、土日祝日8時半から14時は必ず家にいないといけなくなりました。
この時間拘束は全体的には短いですが、色々と不便な面があります。

休日のイベント関係は全滅ですし、夜勤帯ができないです。
泊りも行けません。
門限が22時半です。
これ仕事していたら、まったく自由な休みって僕無いんですね。
1人暮らしもできません。
これで結構人生の幅が狭まっています。
しかし逆に言えば週5~6日の午後22:30~0:00、土日祝日8:30~14:00以外は動けるので、そこで色々とでかけています。
これで結構母と討論になりました。
旅行に行ったとか、1人暮らし始めたとか聞くと嫉妬みたいなものがありました。
稀に自由な日はあり、そのときはすかさず1泊2日が限界でしたが、県外に旅行に行きました。

◦家族で出かけることが年に2~3度のお墓参り以外なくなった。

拘束時間の関係ですね。

◦身内が亡くなったときは手続き関係が厄介だった。

父が亡くなった今血族上他人となった母が動いていたためです。

兄のこだわりは前に書きましたが、周期的に変わります。
その今までにあったこだわりと対処法をまた書きます。

◦TVの暴力シーンやそれに近い罵声のシーンがあると、興奮して叫びながら飛び跳ねる。

 これされると家木造で30年ちょっと立ててから経っているみたいなので、兄は僕の1階の部屋の真  上の2階にいるので、ドーンドーンと天井が音しながら振動がある状態になるんです。
震度3ぐらいが僕の部屋の真上の天井で起っているようなものです。
なので本当はそこの天井だけでもリフォームを考えていますが・・・。
兄のこのこだわりは10年ぐらい前からはありました。
凄いですね、天井が。
もつんですね、なんか木がいい感じでしなっているんでしょうか。
ちなみに1階の廊下も3か所ほどへこんでいて、そこもリフォームしたいのですが、木がうまいことしなっていてヘこんでから10年近く経ちますが、もっています。
これもしマンションや団地などの借家に住んでいたら、追い出されるでしょうね。
このとき一軒家で良かったと思いました。
ペースは週1~2日でそうないのでこれも良かったです。
まあ、毎日毎日暴力や罵声シーンがあったら視聴率取れないのでそんなことはないとは思いますが。

対処法は薬でしょうか。
薬で鎮めることはできます。
しかし、薬は鎮めるというより、実際は眠らすでしょうか。
ですがその薬も通常の量は効かないこともあります。
そういった場合は、危機を感じたらやむおえず増やして、すぐに医師に相談するといいでしょう。
量の調整をしても良いのかなど相談し、医師の指示に従う流れでしょうか。
それ以外はそのシーンが終わるまで待つでしょうか。
しかし、大体そのシーンは数分で終わりますので、まず薬はこのこだわりの時は飲んでいません。

◦場所のこだわり

物とかの置き場所がそうですが、人がいる場所にこだわります。
家族の時間帯ごとに過ごす部屋や、寝る部屋のこだわります。
なので、僕の場合ですと2階で過ごすことができませんし、自分の部屋以外で寝ることもできません。
しようとしてみましたが、兄が来て自分の部屋に戻れと言わんばかりに引っ張ってきます。
1時間半で僕が観念しました。

対処法は、何回も何回も言い聞かせれば納得してくれるかもしれません。
か諦めるかですね。
自分の部屋にいればいいわけですから。

◦自分の行動のこだわり

前にも送り迎えのことや風邪をひいていても行きたい場所には行くというようなぐらい行動へのこだわりがあります。

兄は現在大体は1週間のスケジュールが決まっていまして、それに忠実に動きます。
それは風邪をひいていてもです。
作業所だろうがデイサービスだろうがお泊りだろうがです。
幸い風邪ひいていないんですね。
作業所で健康診断や予防接種受けているからでしょうか。
めったに風邪ひいてません。
インフルには生まれてから1度もかかったことないぐらいです。
仮にインフルでも行くかもしれません。
なにせ、作業所何十人かいる中で、3番目にこだわりがきついといわれているぐらいから。
1・2番目の人はどれぐらいきついのかと思いました。
最近は睡眠サイクルが崩れています。
昼夜逆転でしょうか。
作業所9時から始まるので、8時ぐらいには起きてほしいのですが、何回声かけても起きません。
というか8時には起きたくないというような気がします。
まあ朝方まで起きていて寝たら8時には起きれないんは当然ですが。
1番酷いときは、14時ごろ起きて作業所に行く日が週5日の内3回ほどあり、残りの2日は正午ごろという週がありました。
最近は遅くても正午には起きてくれます。
ですが稀に作業所の終了後に起きたということがあり、作業所もう終わっているよと声かけたのにも関わらず、1人で準備をして作業所まで行って鈴家に戻ってくるということがありました。

対策はこちらも薬でしょうか。
良い時間帯に眠ってくれるように薬を飲ませ眠ってもらいます。
兄は薬の眠くなるという作用でお風呂の中で倒れそうになったので、それから薬を飲ませませんでした。
しかし薬を飲ませないと寝付かないので、お風呂に出た後に飲むようにしてから酷かった頃よりは早く寝るようになりました。
環境の変更も効果がありました。
兄は食欲旺盛なため、家中をうろうろして食べ物がないか巡回警備員のように探しています。
まさに自宅警備員です。
兄は暴飲暴食なため、(調味料をそのまま口にするほど)健康や備蓄のため兄に入られないよう台所に鍵をしています。
しかしそうしますと、僕らが何か食べたいときに台心の鍵を開けてわざわざ取りに行かないといけないのです。
その手間を省くために、ちょっとした軽食や備蓄品を隠していたんです。
そしたら以下の写真のように食い散らかっていました。
これぐらい兄は悪食でもあるんです。


カップ麺の面だけそのまま食べました。

せんべいを全部食べられていました。
このとき夜勤明けで楽しみにしていただけあってショックでした。
また走って買いに行って食べましたけど。

カップ麺が食い散らかっていた跡です。
こととき兄はカップ麺をあけて、粉末スープを麺にかけ、バリバリと粉末スープのかかった麺を食べていたんでしょうね。
ゴミ箱に証拠のごみが捨ててありました。
ちなみに分別はできません。


こんなことが時々ありました。
しかもいすを使ってじゃあないと取れないようなところに隠したんですが、椅子を使って取ったんでしょうね。
そういった工夫が兄にはできます。
両手を使って懸垂みたいにして上にあるものを見ていたのも最近見ました。
そうやって家中に食べ物がないかをあの手この手で朝方まで探しているので、睡眠時間がおかしくなって作業所に行くために起きる時間に起きれないのではないかと母と話合った結果なり、隠していた食べ物を今のところ兄がわからない見てもいないところに隠しました。
こうすることによって兄がいずれは「部屋には食べ物がないじゃあ寝よう」と考え、規則正しい時間に寝てくれるのではないかと思い、対策の1つとしてしてみました。
効果はありました。
探すは探すのですが、時間や回数が減りました。
冷蔵庫を開けられないように、鍵を取り付けました。
難しいやつではなく、外付けの貼り付けるものです。
写真のようなものです。


こちらはホームセンターで1000円程で売っていました。



こちらはダイソーで100円で売っていました。
100均に結構あります。
100均のためか剥がれやすかったです。
コスパはいいため、テープを強力にすれば便利かもしれません。

このようなこともできます。
ちなみに隠していはいますが、服の山の中は今のところ効果あります。

この中にパン屋お菓子が隠してあります。
今のところばれていません。



洋服かけの下のリュックの中にもお菓子が隠してあります。
ここもばれていません。

こういった感じでまだ隠している場所実際はあります。
勘づかれるといけないので、リュックとか服の山とかキーワードを兄の前で喋らないようにしています。
喋ると勘づかれます。
言葉の理解はもしかしたらある程度できるかもしれません。
そこは侮れないです。


台所のドアに鍵を付けました。
台心に入られたら、調味料は飲まれ、ご飯は食べられ、カップ麺は食い散らかせられ、ごはんや卵は食べられで大惨事になります。
その大惨事を何回も経験したため鍵を付けたのです。
ねじで簡単に取り付けられます。
この部品はホームセンターで500円あれば買えます。
しかしこれだけでは簡単に回してけあけられるので、ここから以下の写真のように南京錠等の鍵を付けます。



南京錠つけました。
ホームセンターでこのサイズは1000円あれば買えます。
これで1年ぐらいしたら開けられました。
予想外でした。
本当に兄は侮れません。
しかし、考えてみますと刺して回したら開けられるので簡単かもしれません。
むしろ1年ももった方ですか。



もう1つの策としてダイヤル式にしました。
これで流石に大丈夫だ思いますが、気を付けないと棒を本体にさしたと思ってもさせてないときがあるんです。
そうなると手で触れば開けられるんです。
なので、かならず本体に棒をさしましたら、棒が本体から抜けないかどうかを確認する必要があるんです。
しかし、ダイヤルは兄もわからないのでその点では効果あります。
ダイヤル南京錠はホームセンターで500円程で買えます。





母子家庭で障がい者いるというのは、結構比率が低いですね。
なので相談相手に困るときがあります。
母には兄の関係でちらほらとはいるそうですが、僕の周りにはいません。
なので僕はもちろん、母ですら相談相手に困るときがあり、相談しても結局は相手は経験していないので母からはよく「あまりいい話ができなかった。」、「相手の聞く気が感じられなかった。」と聞きます。
ありがたいことに僕のような境遇の人たちが集まった会があることはあるのですが、(そういった会は各都道府県にあると思います。)いろいろと活動があるみたいで、時間的拘束がただでさえあり、多少なりとも仕事がある僕らにとっては参加が難しいのでやめました。
そんな中ですが、探しているうちに日時には制限がありますが、気軽にふらっと立ち寄れる場所を見つけることができました。
ネットの世の中なので、なんでもネットで調べました。
キーワードを「障がい者家族相談+自分が住んでいる地域」にすると結構出てきます。
ただ、いつでも行ける状態ではありますが、他にやることがあったのと、兄がとりあえずは落ちついているため、まだ行ってはいません。
そうやって相談しに自分で行くのもできますが、ときどき「お変わりないですが?」などとときどき確認の電話がかかってきてくれると安心でき、ストレスが軽減できるのではないかと思いました。
基本どこでも相談するところってまずはこちらから行動しないといけないではありませんか。
1回目は当然こちらからかけないといけないですが、(そんなあったことも話したこともない何の情報もない人から、「何か困っていることはありませんか。」とかかってきたら怪しいと思いますので。)それ以降に相手からもときどきは電話がかかってきたら、その時に何かあれば言えるので、その時点でストレスが軽減されて、心身をよくできると思うんです。
ということは行動しない限り、相手は電話1本すらかけてこないということなんですね。
これって結構危なくないですか。
ここだけの話だけにはとどまらないですよ。
そこを電話1本でもかけるだけで結構防げることってないですが。
自殺とか虐待とか。
認知症も心配です。
父方の祖母の子どもも(僕から見たら伯父)兄とはまた違った知的障害を抱えており(喋れないのは一緒ですが、衝動性はなかったらしいです。)、身体障害もあります。
その祖母は伯父を施設に入れてから、認知症になってしまいました。
それを直に母は見てきたので、自分もならないかと心配しています。
そのために母は社会とのつながりがほしいと、空いている時間でパートに行ったり、近所の人と積極的にコミュニケーションを図っています。
それは家族として尊重したいので、母が働ける時間帯は僕は時間を空けています。
家事もやっていますので半分主婦に近い生活です。
時間的拘束があるので、ずっとフリーターです。
正社員はどうでしょう。
母子家庭や障がい者を抱えた絡むのが、経済的なことですね。
さらに家庭によってはそこに時間的な制限もつきませんか。
僕の家庭がそうなんです。
母が土日祝日の昼間に働いているので、そこは空けないといけません。
となると、ほぼ正社員ないですよね。
土日祝日休みといっても、繁忙期には土曜日出勤とかありますし、会社カレンダーを取り入れているところも多いです。
あっても営業とか自分には合わないところで。
では土日祝日あっても時間をずらせれないかと考えました。
夜勤とかです。
そこは母次第です。
母は夜も1時間だけ働きたいと言っていて、現に最近まで夜1時間の夜間清掃していました。
それが最近閉店による解雇になったのです。
その夜間の1時間がないとボケると言っています。
となると、家族の方が大事なので、母がいずれ1時間の夜の仕事が決まる前提で動くことにしました。
ボケたらこまるので。
ですがとなると正社員ではほぼないですね。
仮に母が夜また働けたら、昼間を隔週で土曜日休めれないか交渉することを場合よってはしようかと考えています。
でもしないと正社員は難しいので。
ここまで考えている人っているのでしょうか。


おわりに

 こういった家庭環境の中30年近く生きてはこれました。
現在は母子家庭や障がいを持った家族がいるということはないからと思っていてもいつどうなるかはわかりません。
もしなっても、気を落とすかも知れませんが、生きていけないことはないでしょう。
僕が生きてこれているので。
ここまでお読みくださってありがとうございます。